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平山書店のレビュー |
掲載レビュー全609件 |
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正直、内容を表面だけさらって、レビューを投稿することを、お許し願いたい。秋田県式家庭学習ノートと銘打ってること自体、はたしてこんな名詞が普及しているか、おぼつかない。しかし2年連続で、学力が日本で上位の学力にあることは間違いない。教育の方法などなど、色々に実際注目を集めている。大手予備校の「秋田に学べ」の車内広告は記憶に新しい。秋田県の教員と沖縄県の教員の人事交流も始まったらしい。この本もひとつのヒントを与えてくれることでしょう。「東大合格者のノートはかならず美しい」と併読していただければ幸いです。 (2009年04月12日) | ||
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こちらも、ご当地本(秋田県)。前の「秋田県式家庭学習ノート」(主婦の友社刊)と共にレビューを書くことご容赦願いたい。4ツ葉のクローバーを渡しつづける秋田市内を走り続ける現役のタクシー運転手さんの物語。最初のきっかけは自分の娘と同じくらいの年頃のお嬢さんが、今にも泣きそうな顔で乗車されたとき、黙っていられず、今朝採ったばかりの4ツ葉のクローバーを差し上げたとこから始まった。エピソード満載。知らず知らずのうち涙で、眼の前が曇っていくかも。秋田市にいらっしゃ時、幸運に恵まれ、この運転手さんに巡りあえれば、4ツ葉のクローバーがいただけるかも。 (2009年04月12日) | ||
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この本は著者が幼少のころから抱いていた、古代ローマを再現したいという思いを実現したものである。4世紀、(日本で言えば,古墳時代に当たる)属州の若き主人公がローマを観光しながら町の津々浦々を歩くという趣向である。そこは既に、現代にも通じるような、上下水道が完備され、都市と呼ばれる機能がすでに出来上がっていた。それがイラストで都市全体が描かれており、見ているだけでも楽しい本に仕上がっている。 (2009年04月01日) | ||
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人は与えることによって幸福になれる。子どもを教え導く学校という空間の中で、このことが実践されている格好の事例である。新井先生は生徒に勉強を教え、生徒や同僚の教師は先生の目の代わりをして手助けする。理想的な互助関係が営まれているのだ。そういえば、自分の過去の人生について回想してみると、不運はしばしば幸福の契機であったことに思い当たる。教戒に満ちた一冊である。 (2009年04月01日) | ||
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明治26年1月、北村透谷は島崎藤村らとともに文芸誌『文学界』を創刊した。これと時を同じくして、日本の近代文学史上きわめて重要な事件が起こっている。それが、北村透谷と山路愛山の間に戦われた「人生相渉論争」だ。 山路愛山が、当代の文学を批判する形で「文章は事業であって、人生に相渉らなければ空の空」と有用性を文学の目的として主張したことに端を発し、透谷は文学とは精神の事業であるという部分には理解を示しつつも、人生にとっての文学のありかたを問題とした一連の論争である。透谷は、文学というかぎり根底的生命的な意味で人生に働きかけるものでなければならない、と主張する。透谷の主張は、愛山の功利的な文学観に対する拒否であった。 この論争の過程で、透谷は自らの考えを劇的に深化させた。それは評論の内容が論争前とは全く違うことを見れば明らかである。彼は文芸評論家としての活動に身を灼き尽くし、翌27年5月自宅の庭で自死する。25歳だった。しかし、彼とその仲間が創刊した文芸誌『文学界』は、芥川賞候補作発表の場として、文壇におけるゆるぎない地位を占め今に至る。(のり) (2009年02月03日) |
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フランスの哲学者アンリ・ベルグソンの代表的著作である。彼の著書のなかで最も独創的な位置を占めながら、同時に最も難解であるがゆえ、最も読まれていないという側面をもつ論文。物質である脳髄と精神との関係を追及する分野は「心脳問題」と言われ、現在でも解決されていない最大の難問とされている。読書子は2泊3日の山篭りを敢行しこの著作に取り組んだが、この本1冊だけではやはり理解が難しいという感想を持った。字数の関係で内容については触れないが、今回、理解の手助けとするため、他に3冊のレビューを紹介したい。「心脳問題」の入門編ともいうべき『脳と仮想』、詳細なベルグソン論からなる小林秀雄の『感想』、そして小林秀雄がベルグソンについて述べた講演『信ずることと考えること』 である。実生活にはまったく役立たないが、人類最大の難問ゆえ、挑むだけの価値はあると信ずる。われこそはという読者の登場を期待している。(のり) (2009年01月25日) |
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『信ずることと考えること』と題される、小林秀雄氏の講演を録音したCD2枚組み作品である。読書子はこのCDで、初めて小林秀雄氏の肉声を聞いた。歯切れのよい口調は、彼の練り上げられた文章のイメージそのものと一致する。ただ、彼の文章は何を言いたいのかわからないところがあるのだが、この講演はそうではない。聴きながらきっちりメモを取ることが出来る、このことが何よりの証拠である。「心脳問題」に触れてみようと思っている読者は、まず、この講演を聴くことから始めたらよいだろう。明確なイメージを持たぬ者に、確固とした指標を与えてくれるもの、それがこの作品である (のり) (2009年01月25日) |
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「心脳問題」のあらましを理解するのに適した論文である。心脳問題とは次のようなことである。物質である脳に、いかにして様々な主観的体験に満ちた私たちの心が宿るのか、という問いのことである。現代の科学では解決の糸口さえつかめていない大難問である。近代科学は経験を計量できるものだけに絞った。そしてそのことにより科学は目覚しい発達を遂げてきた。だが、この近代科学の方法には、どこか根本的な欠陥がある。この「恐ろしい事実」に哲学や脳科学、認知科学にたずさわる人びとはもうとうに気付いている。だが、生活を便利にするためには近代科学はやめられないだろう。そこに、読書子は、著者をはじめとした意識について取り組んでいる研究者たちの煩悶を見る。それゆえにこそ、かつてマルセル・プルーストが身を削りながら『失われた時を求めて』を完成させたように、人生賭けて取り組む価値のある問題なのである。 (のり) (2009年01月25日) | ||
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小林秀雄がベルグソンを語った作品。『物質と記憶』について語った部分は、第17章後半部から第26章末にかけての約75ページである。しかし、この他にも興味深い箇所がある。小林秀雄は第5章において、ベルグソンほど芸術を重んじた哲学者はいまい、と述べている。数学者の藤原正彦氏が、著書の中で役に立たないものを尊ぶことが、天才を生む条件の一つであると述べていることから想起するに、この哲学の大天才が実生活には何の役に立たない芸術を愛していた事実は、記憶されてよいだろう。『物質と記憶』本編を読んだ後、本書に取り掛かるのがよかろうと思われる。なぜなら、小林氏の著述はベルグソンの記述に忠実に沿ったレビューであるからだ。小林氏自身の意図は、『物質と記憶』に関する限り、この難解な書を一般の読み手にわかりやすく伝える、そのことにあったのではないか、と思われるのである。(のり) (2009年01月25日) | ||
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今回文庫になったのを機に再読してみた。冒頭、主人公のつるは、染み抜き屋として読者の前に登場する。本書は5つの短編から成るが、それぞれ視点を変え、配列順に過去の出来事へ遡ってゆく。綿密に計算された構成であろう。最終章、それぞれの人物のつながりが明らかにされるのだが、唯一といってよい隠された描写がある。それは、つるが花魁から染み抜き屋へと転進したときの経緯だ。第1話の始めに、隣に越してきたコハルに対し、わずかに語るのみである。もちろん、自身が花魁の松尾太夫だったことは伏せたまま。読書子の想像力はいたく刺激された。結局、これは、つるの視点から見た世界を描いた小説なのだ。つる自身の過去が明らかにされるのは、主要な脇役たちがかかわった部分に限定されているから、われわれは、彼ら脇役以上にはつるの内面を知り得ない。つまり、われわれは彼ら脇役と同じ視点に立ち、つるを眺めていることになるのだ。読み手とつるの秘密を共有する親和感、そして謎のまま残された彼女の内面に対する読み手の想像力を働かせる余地を残したところに、この作品の非凡さが見えると思う。(のり) (2009年01月04日) | ||
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前進する力となるものは過去への肯定感である。このことが新たな創造に必要なのだ。最近、そう説いた論者がいたことを思い出した。歴史の過程において、人間は決して得る一方だったわけではない、同時に失ったものが必ずあった。それは必然的に棄てざるを得なかったもの、という位置づけがなされるだろうが、外国人が軒並み賞賛するような美点でもあったのである。人間の幸福は歴史の進行とともに増大してきた、というような教科書的な歴史観は全くの誤りであることに気付かされる。われわれ現代人が、当時の人びとの立場で歴史を通観するのには困難さが伴うが、本書は徹底した文献の分析によってそれを可能にした。時代小説のなかの、あの細やかな人情や人びとの自由さは、必ずしもまったくの作り事ではないのだ。時代小説ファンの皆様は、ぜひ本書を通読されることをお薦めする。時代小説はファンタジーではなかった。きっと新たな発見があることだろう。(のり) (2009年01月04日) | ||
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桂雀々さんは11歳で母親が蒸発。その後父親も家を出ていった。当時、友達に同情をかけられるほど惨めなことはない、と思ったという。少年ながら誇り高き人である。そのため「おもろい子」を演じていたが、テレビに出たことにより、今度は何もしていないのに笑われる、という苦痛を味わう。常人と違うのは、それをバネにして自力で落語という”芸”を身に付けたことだ。笑いを支配する側へと劇的な転換を果たしたのである。(のり) (2009年01月04日) | ||
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本名は田所康夫、芸名は渥美清、そして”寅さん”こと車寅次郎。これら3つの顔を抱いて生きてきた渥美氏の第4の顔。それが俳号風天と称する俳人としての顔である。1996年、田所康夫はひっそりと死んだ。だが、その外側の渥美清、車寅次郎2つの顔は生きている。本書によりそのもう一つの顔”風天”が加わった。白居易の詩にこうある。「骨を埋むるも名を埋めず」と。身は死して骨を埋めても、その名は永久に伝わるのである。(のり) (2009年01月04日) |
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オルテガはスペインの哲学者である。1930年代、当時ヨーロッパの急激な人口増加により、大衆が社会的勢力を担うようになった世を観察し、練り上げたのが本書である。オルテガはヨーロッパの没落を確信し、大衆の無道徳性に危機感を持った。「一般人は、技術的、社会的にこれほど完全なこの世界に生きているので、それを自然がつくったのだと信じており、それを創造できたのは、卓越した人々が努力してくれたおかげだということをけっして考えない。」と批判する。以前は幸運のたまものとみなされ、運命に対する敬虔な感謝を呼びおこしたようなことが、感謝すべき権利でなく、要求しうる当然の権利に変わったのである。その結果、大衆的人間には次のような特徴が見られるとして次の二つを挙げている。それは、大衆的人間の性格の無制限な拡大と、生活を便利にしてくれたすべてのものにたいする、まったくの忘恩とである。本書は70年以上もまえに、しかも遠く離れたヨーロッパで書かれた論文であるにもかかわらず、いまの日本に生きるわれわれの心にも、ぐさりと突き刺さるような辛辣な批判ではないだろうか。また、オルテガは生についても次のように述べている。「あらゆる生は自分自身であるための戦いであり、努力である」。このあたりに限っていえば、生の絶対的肯定を主題としたニーチェ哲学にも通じるものがあるだろう。さらに続けてこう言う。「生きるとは、一方では自分自身のためになにかをすることである。他方では、自分だけに重要な生は、これをなにかに捧げなければ、緊張も形もなくなって、がたがたになってしまうだろう」と。最近の書『私のなかの聖書』で、作家の曾野綾子さんもこう語っていたのを思い出す。要求するだけでは不満だらけ、人は贈り与えることによって充たされる、と。進歩した文明とは困難な問題をかかえた文明にほかならない。もはや古典の部類に属するであろうが、このオルテガの文明批評は日本でもっと再評価されてもよさそうである。同じ過ち(この論文ではヨーロッパの)を繰り返さぬこと、それは歴史から学ぶしかないのであるから。(のり) (2008年12月24日) | ||
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シェイクスピア四大悲劇のひとつ「マクベス」が、劇作家安西徹雄氏の新訳により生き生きと甦った。この作品の魅力については、既にいろんな角度から評価がなされているが、小欄ではイギリスの食文化という視点からこの作品を鑑賞してみたいと思う。さて、イギリスの食べ物として古くから最も有名なのはローストビーフに代表される肉であろう。階級社会であったイギリスでは、その階級ごとに食べる物が決まっていた。肉を思う存分食べることが出来たのは最も豊かな者、地位の高い英国紳士だったという。では、王位を奪ったマクベスが貴族を集めて開いた晩餐会の情景を見てみよう。奇妙なことに料理の描写は一切無い。唯一、杯に入った酒が登場するのみである。しかし、その杯もバンクォーの亡霊にうろたえたマクベスにより投げ捨てられてしまう。ここで、次のような推測ができよう。シェイクスピアは意識的に料理の描写をしなかったのではないか、なぜならマクベスがその王位にふさわしくないことを暗示するために。名作にはいろんな楽しみ方がある。少し角度を変えてみると、また新しい読書の愉しさが味わえる。見る角度を広げること、すなわちそれは読書の数とともに増えてゆくのだ。(のり) (2008年11月18日) | ||
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古代日本社会の裏面史 | ||
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本書は奈良時代末期〜平安時代初期にかけて成立した、日本最古の説話集である。「今昔物語集」等、今に伝わる昔話の基となった作品だ。著者は薬師寺の私度僧、景戒。上中下3巻からなり、全部で116の説話が収められている。仏教伝来からおよそ3世紀、当時この教えが人々に何を教えようとしていたのかを伺い知ることが出来る。しかしこの作品の魅力は、なんといっても古代社会の民衆の暮らしぶりにふれることが出来る、という点にあるだろう。例を引こう。「邪見ある仮名の沙弥の塔の木を斫きて、悪報を得し縁」は、次のような話である。河内の国に石川の沙弥という僧に名を借りた盗賊が居た。ある時は塔を建てるためだと言って人の喜捨をだまし取り、ある時は寺の塔の柱をたたき割って燃料とするなど、仏法を汚すことをしていた。そしてある時、急に病にかかり、「熱い、熱い」とわめき叫んで走り回るのであった。ある人が聞くと「地獄の火が襲ってきて、おれの体を焼き焦がすのだ。」と叫んでその日の内に死んだという。記紀、万葉集を古代の世界と信じていた人は、あまりにも生々しい民衆の姿を目の当たりにして、おそらく驚愕するであろう。因果応報という当時の仏教に基づく世界観を通じ、著者の景戒が人々を善導したいと考えていた熱意が伝わってくる。本書は日本最古の仏教説話集であると同時に、道徳的な啓蒙書としても読めるところに価値がある。すなわち、記紀の神話世界から転換し、一般の個人の行いに目が向けられた日本における思想の変化をそこに見いだすことが出来るからである。 (2008年11月18日) | ||
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初防衛おめでとうございます | ||
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人間はもともと不平等である。石橋幸緒さんの生まれようを見ると、そこのとを一層強く思わずにはいられない。しかし、不完全な状況の中、信念をもって自分の生き方を貫くときこそ、人間は光り輝くのである。もし、この世の中があらゆる面で完璧で、生きてゆくために何の心配もいらなくなったとしたら、きっと人間は限りなく堕落してゆくだろう。幼年時代の病院生活の中で、他から与えられるのを待つのではなく、自ら楽しみを探してつくることを彼女は学んだ。将棋棋士に最も必要とされる盤上の創造力はここで萌芽したのである。そして、石橋幸緒さんは棋士になることで不可能を可能にした。このことはもっと世間で強調されてよい、と読書子は思う。その意味で棋士になるまでの過程をあまねく綴った処女作『生きてこそ光り輝く』(PHP)が、現在品切れとなっているのは、まことに残念でならない。現在、石橋幸緒さんは、LPSA(日本女子プロ将棋協会)理事としての普及活動を通じて、”与えるよろこび”を感じているという。かつてツアラトゥストラはこう語った。「贈り与えることは最高の徳である」と。座右の銘「万物生光輝」とともに、彼女の人生は確実に次の段階へと歩みを進めている。 (2008年09月29日) | ||
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この古典的傑作でわれわれに何が問われているのか、このことについて考えてみたい。まず、最初に断わっておくが、様々な読み方ができる小説である。キャサリンとヒースクリフの恋愛小説と読むこともできようし、また自分を裏切ったキャサリンに対するヒースクリフの復讐劇とも読むことができる。あるいは、本書の訳者である鴻巣友季子さんが述べているように、人間のエゴと心理を描いた心のリアリズムと読むこともできよう。だが、これらの見方を踏まえたうえで、改めて何が問われているのかといえば、読書子はそれは「愛とは何か」であるといいたい。自分を裏切りエドガーと結婚したキャサリンに対してヒースクリフはこう語る。『おまえのした仕打ちは赦そう。俺は自分を殺めた相手をも愛す−だが、おまえをあやめた張本人をどうして愛せる?』エミリ・ブロンテは看破していた。自分が他人にしてした悪は、結局自分自身に対してした悪であることを。そして、ヒースクリフがキャサリンに対して示したのは見返りを求めない最高の愛であるけれども、その愛にもキャサリンが自分自身にした悪までもは救い得ないという限界があることを。『嵐が丘』出版の36年後、ニーチェはツアラトゥストラにこう語らせている。『君が私にしたこと、それをわたしは君に許す。しかし、君がその行為を君にたいしてしたということ、そのことを許す資格がどうしてわたしにあるだろうか』(手塚富雄訳)と。読書子は、ここでこの二人の大作家の邂逅を見いだした瞬間、たまらない読書の悦びを味わったのである。(のり) (2008年11月09日) | ||
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日本人は進歩的なもの、革新的なものはすべて欧米から来るものだというように、百年のあいだ洗脳され続けてきたと著者は語る。それは、欧米人たちの欧米至上主義という意識の高さにより操作されてきたものと看破する。われわれ日本人は、常に何か手本とするものを探している。もっと自国の歴史にそれを求めてみてはというのである。本書には教科書には無い素晴らしい日本のお手本が詰まっている。同じ民族が過去に欧米より優れた社会システムを構築していたことを知るだけでもうれしくなるではないか。本書を読んだ読者の喜びは、そのまま著者の喜びとなる。欧米人に挑んだ著者の気概が感じられて、同じ日本人として拍手を贈りたくなる1冊である。(のり) (2008年10月21日) | ||
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夜読み返してはわが言動を反省し、朝読みては一日の仕事の原動力とする。まことに社会人にとって座右の書にすべき素晴らしい1冊である。本書は数多くの小話からなっている。そのほとんどが成功譚であり、読んで気持ちの良い、また自分でもやってみたいという気持ちを起こさせる内容である。人が創造的な仕事を成し遂げるためには、失敗よりも成功体験を積み重ねることが必要である。成功することで、自ら行動する自身がつき新たな意欲が沸き起こり、それが創造の種となるからである。この本に収められているエピソードを毎日音読してみよう。きっと、毎日の通勤が待ち遠しくなることであろう。(のり) (2008年10月21日) | ||
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